藤枝での桐箪笥製造は、寛永11年(1634)三代将軍家光公の浅間神社の造営に全国から集められた木工、漆工、彫刻等の技術者が、造営後もこの地の温暖な気候風土に魅せられて住みつき、素材として入手しやすい桐を用いて、その特性を利用した長持、衣料箱、箪笥などをつくりだしたことに発します。
この地に移封された田中藩本多氏は、天保2年(1831)、藩財政の改革のために領民に対して”五穀不育控地”(何も植えていないところ)に有益な商品作物の植栽を奨励し、その結果、成長の早い桐の植え付けが盛んとなり、素材生産と加工技術が結びつき、天保13年(1842)の宿場図では、15名の指物師がみられる程に発展しました。
明治から大正にかけての鉄道の発達は、藤枝の木工業者にも、生産の拡大を促す要因となり、自給自足的につくられていた桐箪笥は、その品質、技術をもとに県内外に販路を広げました。