駿河雛人形のルーツは、桐塑(とうそ)による煉天神(土天神)という説があります。焼津市上新田の青野嘉作が、祖父三右エ門の生まれ故郷美濃国青野ヶ原から土細工師を呼び寄せ、土人形を作り出したのが始まりとされています。天神とは、菅原道真を模った人形のことで、当時「天神は雨降る神」として信仰され、その後、学問書道の神とした信仰に変化しました。江戸時代末期には衣装を着せた天神(衣装着雛天神)が作成され、現存する最古のものは嘉永6年(1853)のものがあり、「駿河雛人形」のルーツは衣装を着せた天神とも言われています。
初期の衣装は、ビロードと言われ、朱子地のようなもので、後半分は朱通しの赤紙で袴は下までないなどの特徴があります。
その後、節句人形として親王雛や高砂などのほか、立天神、立雛などが製作されていました。江戸後期には、全国各地で江戸雛と京雛に似た田舎雛が作られるようになり、当地方でも立雛天神、内裏雛、五月人形等の節句人形が作られ、その後、15人揃や風俗を反映した時代人形、武者人形といったものがつくられ、現在に至っています。