静岡で初めて漆器が製作されたのはいつの頃からか定かではありませんが、今川時代の文献に、御器屋町に中川大工と呼ばれる一類がおり、中川椀というものを作って、町名も一時中川町といったことが記されています。
しかし、漆器が静岡に根を下ろすことになった一番の要因は、浅間神社造営です。拝殿の全てを金、銀でちりばめ、総漆塗りを施した仕事は、全国各地から優れた漆工たちを集めて行われました。造営後も、漆作業に気候が適し、住み良いため漆工たちが定着し、技を磨く一方広く土地の人達に漆工技術を教えたといわれています。
当時の作品は、竹籠などに漆塗りを施した簡単な日用品でしたが、技術が進むにつれ、さまざまな品が作られるようになり、享保年間には幕府の保護奨励をうけ、販売経路も広がり、参勤交代の大名たちに土産品として好まれました。
さらに開国とともに海外へも輸出され、慶応3年(1867)4月、パリ万国博覧会に出品するなど、国内外へその名を広めました。静岡の漆器は大正2年頃から6年頃に黄金時代を迎え、当時の輸出漆器の大部分を独占しました。