静岡市には「麻機」「賤機」「服織」など布に関した地名が多く残っています。今川時代には木綿が盛んに作られ、八幡織木綿、中島紬などの織物の名もみられ、織物とならんで染色業も発達し、紺屋町ができ、型染や手描きの紋染が行われ、近郊農村では染料の藍の栽培が盛んに行われました。
江戸時代には、武家のために幟(のぼり)、旗差物(はたさしもの)、町家のためにのれん、伴天、作業衣など、また、祝儀物として筒描きによる定紋入り風呂敷などが染められ、旧安倍川の川筋に沿って多くの紺屋が繁盛したといわれています。
しかし、明治になり、交通の発達から他産地からの進出、機械染色の出現など近代化の波のなかで、紺屋の仕事も減少しました。再興の機を与えたのは大正後期に起こった民芸運動で、直接には芹沢銈介氏(当時県工業試験場技師、人間国宝)が静岡やその他の地域に残る染色技術と芸術性の発掘に努力し、その成果が実って、新たな静岡における和染興隆の端著となりました。